プロフィール

1978年幼少期
茨城県常陸太田市に長男として誕生
「生まれるのは絶対に男だ!」
そう思いこんだ父は、生まれる前から「龍治」という名前を決めていた。
ただ現実は父の願う「龍」のような男ではなく、よく泣き、いつも指をくわえてウジウジしている子供で、母はそんな僕の将来が本当に心配だったらしい。
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唯一のとりえは、数秘の運命数が「33」だったことくらい。
後年知ったのだけれど、数秘のマスターナンバーの中でも最強の数らしい。
それが理由かは分からないけれど、ウジウジ泣き虫だった僕は、泥まみれになりながらも地に這いつくばって努力していく中で、文字通り「ピンチはチャンス」に幾度となく助けられていくことになる。

1984年サッカーとの出会い
僕は物心ついたときから、父や母の顔色をうかがっていた。
人に意見が言えず、「なにか言ったら嫌われないか?」と、いつも他人の眼を氣にしていた。
「おもちゃ貸して」、「一緒に遊ぼう」、「先生、これってどうやるの?」
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言いたいけど言えない保育園時代。
そんな6歳の頃、サッカーに出会った。
楽しくて楽しくて、毎日サッカーをするようになった。
唯一、サッカーをしているときだけ友達にもガンガン意見が言えたし、自分でも「サッカーがあるときは、自分らしくいれる」そう自覚していた。
好きなことをすれば自ずとうまくいく。今思い返せば、大好きなサッカーをすることが「本来の僕」をひき出してくれていたのかもしれない。

1987年学校でいじめにあう日々
小学5年生。
常にウジウジしていた僕は、いじめっ子グループの恰好の標的になった。
両親に相談すると余計にいじめられそうなのが怖くて、言えなかった。カミソリでリストカットを試みるが、怖くて未遂に終わる。いじめに耐え忍ぶ日。
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それでも、やっぱりサッカーをしている時だけは「自分が自分らしくいる」ことができ、みんなからも「対等な友達」として扱ってもらえた。
そんな中、父親に成績表をみられてしまった。
父は小学校まで乗り込んで勉強の教え方を請い、強烈猛烈な家庭教師になった。
サッカーをするために、泣きながらそれに応えた。するとジリ貧だった僕の成績はめきめきとアップ。大好きなサッカーの時間も確保していった。

1989年カズに憧れた中学生時代
学年で常に5番以内に入るほど、成績も良かった。
サッカーにも熱中する日々。充実した毎日を送っていた僕は、運命の一冊に出会った。
それがキング・カズこと、三浦知良の「足に魂込めました」だ。
寝ても覚めてもカズに憧れていた僕は、15歳の中学卒業と同時にブラジル留学をする夢を持つようになった。
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保育園の頃から「夢を見ろ、龍治。夢はいつか叶うから」とぼくに言い続けてきた父。
僕は、絶対に応援してくれると信じていた。
中学3年生となり、意を決して両親に「ブラジルでサッカー選手になりたい!」と打ち明けた。しかし、返ってきた言葉は「お前なんかにサッカー選手なんて無理に決まってるだろう!県の選抜にも選ばれてないくせに!ほんの一握りだぞ?!夢ばっか見てるんじゃない」と、まさかの全否定だった。
信じていた親からの言葉には激しく傷つけられたけれど、同時に父がなぜ反対するのかも分かる氣がしていた。
中卒で丁稚奉公となった父親は、「夢を持て」といいながらも、その真逆の人生を送っていた。それでも父は家族のために必死で働き、そして陰では、本当にやりたいこと「法律やお金の勉強」を必死にしていた。
「龍治、弁護士になれ」といった父の言葉は、父自身の夢だった。
この時から僕は、子どもに夢を語る云々の前に、まずは自分自身のあり方が大事なんだ、と思うようになった。
自分が望む好きなことで夢を叶えていく姿が、本当の意味で「夢の大切さ」を伝えられるんだ、と。

1992年念願のサッカー留学と挫折
大反対にあったサッカー留学の夢だったけれど、猛烈にカズに憧れていた僕は、諦めることはなかった。
カズのように、困難でもチャレンジしたかった。
「高校に合格したら、ブラジルに行ってもいい。」
父は地元の公立校を望んでいた。合格していた希望の私立校を捨て、高校1年の夏に「1ヵ月のブラジル留学」を実現した。
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けれど、その夢にまでみたブラジルで、無様な現実を知ることになった。
ブラジルのサッカーレベルは、想像をはるかに超えた驚愕のレベル。まさに、手も足も出ない。なにひとつ通じない。同年代の選手にまったく勝てなかったのだ。
その結果、自分には実力も、現地ブラジル人の「プロのサッカー選手に絶対になる!」というハングリー精神も到底かなわないことを実感し、プロになる夢を納得して断念した。

1995年再び海外留学へ
サッカー選手の夢を諦めたぼくは、それでもサッカーの練習に明け暮れた。
勉強は二の次三の次になっていったが、高校3年になり受験シーズンに突入。
「妥協したら、ずっと妥協した人生になる。」
「妥協した人生は嫌だ」、そう思っていた僕は、大学も安全圏は一切受けずにチャレンジ校だけを受験した。
そして僕は、現役・一浪と見事受験に撃沈した。
まぬけに見えるかもしれないけれど、この「自分の意思をつらぬいて挑戦する」姿勢は、今でも僕の成長の原動力になっている。

毎日10時間以上の猛勉強した結果は、「ピンチはチャンス」とばかりに思わぬチャレンジの機会を運んできてくれた。
僕を見ていてくれた塾側が、2浪したら授業料は無料にしてくれることになったのだ。
そして両親は、「アメリカへの大学留学」を提案してくれた。
2浪して初志貫徹するか、アメリカという無謀なチャレンジに舵を変えるか。
悩んだ結果、より困難な状況に自分を追い込もうとアメリカ留学に出発した。
アメリカに到着して2週間、とんでもない選択をしてしまったと顔が青ざめた。
まったく英語が通じないし、何を言っているのか、さっぱりわからない。
当然、成績は最低のF評価。
留学者は単位が取れないと「強制帰国」になってしまう。
メンタルが折れた留学生は、次々と帰国していった。
それを尻目に、僕は泥臭く努力した。
授業後は毎回質問に行き、メモを取りまくった。
これを全ての教科で行ったため、どの先生にも氣にいられるようになった。
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英語が通じるかな?なんて考えない。
「まずは行動」あるのみだ。
この姿勢を貫くスキルが、アメリカ留学時代に身に付いたと思う。
大学にも慣れ、自由奔放なもともとの性格のまま臆さず振る舞っていたら、英語がそれほど話せなくても友だちは増えていった。
特にラテン系や、スペイン系などの、陽氣な仲間たちが増えていった。
いつしか殆どの友だちが外国人という状態になり、当然、英語力もメキメキ上達していった。

2003年日本での就職、葛藤
帰国して、10,000人規模の東証一部上場の自動車部品メーカーに就職した。
営業職が希望だったけれど、大学時代にデザインを学んでいたという理由で、設計部門に配属された。
新社会人となった僕は、見本のようなダメ社員だった。
先輩を「~くん」付けで呼んだり、上司への報告もどこか「偉そう」と指摘されたり。
周りからは「帰国子女は自由だな~」と、冷やかされる日々。
自分ではどう直していいか分からず、会社にいることが窮屈だった。
けれど昇進欲は人一倍だったため、設計にはまったく興味が湧かなかったけれど必死に食らいつく毎日だった。希望の営業職になれず、いつしか「好きなことで夢を叶える」ことも忘れていた。

2006年知的財産部への異動
設計者として3年目。慣れてきた頃に知的財産部への異動を言い渡される。
ここでは、得意の英語力が活かされた。
英文契約、英文特許、知的財産に関する通訳や翻訳などを担った。
「英語と言えば篠﨑」と重宝されたけれど、いつまでの新卒のような給料だったことに嫌気がさしていた。
そしてついに、31歳のとき転職を決意。
音響機器メーカーの知的財産部に転職した。
結婚し、第一子誕生のタイミングだった。妻も親も反対したけれど、なんといっても周囲の意見に惑わされずチャレンジするのが、僕のポリシーだ。
今はもっと肩の力が抜けていているから、当時の自分を「ストイックでちょっと怖いなぁ」と思うけれど、この頃の僕は文字通り「ハングリー精神」を持って人生を勝ち抜いてやろうと思っていた。

2011年うつ、そして復職
「いち早く昇進し、課長、部長、そして役職まで上りつめる」
目標と野望を胸に転職した僕に、人生が激変する試練があった。
6ヶ月過ぎた頃から、上司からのパワハラを受けるようになった。
上司、同僚、私、3人しかいないこの部署は、上司の氣分次第ですべてが決まった。
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威圧的な上司に心が委縮し、報連相できずに上司の怒りを買った。
上司の機嫌が最悪なときは無理難題を言われ、みんなの前で叱責された。
会社が近づくと動悸が激しくなった。
食欲もなくなり、倦怠感が取れず、うつになった。
辞めたい。けれど妻と子供がいる。
死んだら楽かなという精神状態にまで追い込まれた。
恥を捨て、前職の上司に相談したところ、ちょうど海外案件が増えていた時期だったこともあり、上司のはからいで復職することになった。
逃げるように転職先を退職。
キャリアアップどころかキャリアダウンの結末だった。
身も心もズタボロになってやっと、ただ昇進だけを目標にしてきたことに大きな違和感を感じるようになった。

2012年「金持ち父さん」に傾倒

会社に出戻ってすぐに「知的財産二級技能検定」を取得した。
けれど「これが、本当に自分の送りたい人生なのだろうか?」と、会社員以外の人生を模索する日々。明確なビジョンもないのに、「会社員」を辞めたくて仕方がなかった。
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そんなときに、また「人生を変える本」に出会った。
「金持ち父さん、貧乏父さん」だ。
大ベストセラーにもなったこの本を読んで、「不労所得」という発想を知り、不動産、ネットワークビジネスに傾倒した。「お金があれば会社を辞められる」短絡的だけど、当時の僕にはすがりつきたい希望だった。
片道2時間の通勤時間を活用して、シリーズ全冊を読破。
不労所得に憧れ、人生初のセミナーに行った。それが「不動産投資セミナー」だった。
そこには「元会社員」と名乗る男性が講師として、不動産所有の話をしていた。
その男性は「不動産所得で3割、ビジネス所得で7割」で収入を得るという、本に書いてある通りの人生を送っていた。
当時の僕には、その男性の人生が輝いて見えた。
その彼から今度は「ビジネスのセミナーに」誘われ、飛びついた。
そのセミナーは「化粧品ビジネス」の成功体験を語るもので、僕は「これぞ、金持ち父さんが推奨しているネットワークビジネスだ!」と興奮した。
帰宅し、家族にビジネスを始める決心を話したが、妻や両親は大反対。
1週間悩み、だんだんと化粧品ビジネスに違和感を覚え断念したけれど、次は不動産所有にやっきになった。妻はそんな自分にあきれ、お金を稼ぐことを求めれば求めるほど家族との距離は離れていった。
「昇進」が「お金」に変わっただけで、僕はまだ迷走していた。
やっきになって得ようとしていた「お金」から自由になりたくて、色々な本を読んだ。
小さい頃に感じていた「好きなことで収入を得たい」そんなことをぼんやり考え始めたとき、「好きなことでひとを応援して、感謝されて、それが収入になっていく」という本田健の本の一説に心を打たれた。直感で「これだ」と思った。
そして、サッカー選手の夢から途絶えていた「自分のやりたいこと探し」を30代にして模索することになった。

2014年アドラー心理学との出会い
「好きなことで感謝される」ことを模索するも、好きなことがわからない日々を過ごしていたら、うつ時代に助けられた小倉広さんからアドラー心理学を勧められた。
「嫌われる勇氣」を読み、「自分のしあわせが他人のしあわせになる」という内容に衝撃を受け、すぐに職場のコミュニケーション改善に挑戦した。
実は出戻ってからも、僕は「職場の人間関係」に悩んでいた。とにかく高圧的な上司が苦手で、いつの間にか前職と似たような状況に陥っていた。
「人間関係という課題から逃げ続ける人生はもう嫌だ」
職場の悩みに真正面から初めて取り組んだ。
その結果、特に課長、部長との関係が劇的に改善した。自分に正直にいることで、自分の意見をはっきりと上司に伝えられるようになり、自分の氣持ちがラクになった。仕事も効率的になり、他部署からも一目を置かれる存在になっていった。
ますますアドラー心理学に興味を持ち、いつしかこの経験を誰かに生かしたいと思うようになった。
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コーチングスクール同期

2016年プロコーチと出会い、初のスクールを開催
アドラー心理学をベースとしたコーチングに出会い、プロコーチの養成講座で学ぶものの、クライアントが2年近くほぼゼロ。開店休業状態が続く。
それでも学んだコーチングスキルを磨くために、スクール仲間と練習する日々を送った。
本業の仕事もあったため、毎日が怒涛のように忙しかった。
けれど、それでも諦めなかった。
ただ、このままではいつまでもプロにはなれない。
意を決して、プロのコーチとして活動するために「プロコーチ」を雇った。
プロコーチからのセッションは衝撃だった。
定期的にセッションを受けることで、最初は雲をつかむようだった自分のやりたいことが明確になっていった。そして目標となるコーチの姿そのものから「好きなことして生きていく」ためのビジネスモデルを知ることができた。
そして人生初の、プロコーチとしてのスクールを立ち上げた。
それは当時、アメブロ経由で電子書籍を出版していた経験を活かした、3カ月の電子書籍スクールだった。
「好きなことを活かした書籍作り」をコンセプトに、不慣れだったけれど、全身全霊で生徒の方々と向き合った。しかし書籍に関しては素人同然だった僕は、思うように導くことができなかった。
けれど、自分の好きなことでオリジナルのセミナーをつくり、オリジナルコンテンツを提供し、実際に開催したことは、仕事では経験したことがないくらい楽かった。
何よりも参加してくれた生徒さんたちに、自分が少しでも役立てたことが本当にうれしかった。
自分のやりたい方向性は、間違っていない。
しかも、好きなことが収入になった。
幼いころから感じていた「好きなことをして、自由にのびのと生きていく後ろ姿」を子供たちに見せたいと、改めて自分に誓った。

2017年4月強み発掘セッション開始、量子論・脳科学との出会い
半年ほどで畳むこととなった電子書籍スクールだったけれど、参加した生徒さんから「しのさんから、コーチングで引き出してもらい、フィードバックをもらうことで、自分の強みがわかりました」との言葉をもらい、衝撃を受けた。
電子書籍スクールに来てくださった生徒さんは、原稿を書いて出版する人、そうでない人がいたけれど、例外なく全員、自分の人生を好転させていた。
一生懸命みんなと向き合うだけで意識は全くしていなかったけれど、「強みをひき出すこと」が「僕の強み」なのかもしれない、と直感が働いた。
その人にしかない「強み」を発掘しよう。
そう考えた僕は、メルマガで「強み発掘セッション」を募集したところ、爆発的に申し込みが増え、一氣に忙しくなった。
そして、強みを使って人生を変えていくクライアントが続出していった。
「自分のコーチングで、彼ら彼女らに何が起こったのか?」その謎を知りたくて、謎を探って行くうちに、量子論、脳科学の分野に辿り着いた。
量子論・脳科学の世界を学ぶほど、強みを自覚することで、引き寄せ現象が起こるし、世間一般の引き寄せの法則は、物理法則であり、量子論、脳の仕組みにより解明が可能であることに、確信を深めていった。

2017年11月強みスクール開講
量子論、脳科学、強み発掘、アドラー心理学、カウンセリング、NLPなどを取り入れ、無意識の領域である潜在意識を書き換えて、引き寄せを起こして人生を根本から変えていく「強みスクール」を開校した。
そこでスクール生全員の人生が好転していくのを、次々と目の当たりにすることができた。無意識を意図的に書き換えることで、人生が変わっていくことに確信を得た。

強み発掘sスクール初期

2018年「引き寄せ理論×強み発掘」を活かし独立
自分のやりたいビジョンが明確になり、家族の応援を得て会社を退職し独立。

今では個人コーチングやセミナー、スクールを各地で開催し、すべてのコンテンツに自然の摂理を解明する量子論、目の前の事象(現実)の捉え方を解明する脳科学、強み発掘、アドラー心理学、カウンセリング、NLPなどを取り入れ、自然と引き寄せが起こる仕組みを提供し、「理解⇒体感⇒体得」のサイクルによって再現性を持って人生を好転させるメソッドを提供している。

プロフィールに書いた過去の出来事をベースに、未来への夢をプレゼンする【ドリプラ2018世界大会】にて、400人の前でプレゼンをしました。
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量子力学と脳科学でライフステージをあげる |自分だけの強み×引き寄せコーチング|篠崎 龍治|公式HP